LEADERS BLOG
日々の暮らしの中で、衝撃を感じる事ってありますか?
僕はあります。
ちなみに、ここで言う「衝撃」とは物理的なものではなく、驚きや悲しみや興奮といった精神的な領域のものです。
どんな時に感じるかというと、
例えば、
昔の自分の写真や画像を見た時(げんなりします・・)
子どもの成長を実感した時(嬉しいようなちょっとさみしいような・・)
健康診断の結果を見た時(日々の不摂生を後悔します・・)
想定外の出来事に出くわした時(ちょっとワクワクします!)
などなど。
さて、ここ最近、頻繁に衝撃を感じる時があります。それは「生成AI」に関する情報に接した時です。僕もそれなりに生成AIを日常生活で使ってはいるのですが、日々進化する様子、僕が全く思いつかない利用方法、周囲の人たちがどんどん生成AIを活用したり学んだりして成長している姿、社会に与えるインパクト、などに接するたびに衝撃を受けます。
生成AIに関しては、その進化や可能性に慣れることができません。常に想像を超えた変化があるからだと思います。
この「生成AI衝撃」を、しっかりと受け止めて変化成長するか?あきらめたり避けたりして心の安定を求めるか?僕はこのあたりが人生の岐路、分水嶺かと感じています。ちょっと大げさかもしれませんが、それくらいの衝撃と危機感を日々感じています。
皆さんはいかがですか?
余裕をマネジメントできない、つまり、余裕が無い状況、ってきっと皆さんも経験ありますよね?僕は、納期・コスト・人間関係・成果などなど、行為に付随する「条件」が厳しいものになればなるほど余裕がなくなる傾向にあります。まあ「仕事」という領域で余裕を失うことが多いということですね。あと、余裕のマネジメントができないシーンとして「旅行(一人旅か海外旅行)」があります。コトバが通じない状況で突発的なハプニングがおこったら、余裕は一瞬で消滅します。
できれば余裕をしっかりと管理して生きていきたいのですが、余裕を失う経験をすることで得られるものが実はたくさんあるということが、書物や格言などで昔から謳われています。それを人は「経験」とよんだり「達成感」と認識したりしているようですが、僕は50歳を越え最近やっとそのことに思い至ることができるようになった気がします。
余裕を無くすと、人に優しくできなくなったり、自信をなくしたり、体調を崩したり、なかなか嫌な思いをすることが多いのですが、余裕を失っている自分を俯瞰して眺めることができるようになると、なかなか味わい深いものがあります。
妻から「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」と言われると必ず余裕を失くし狼狽するような僕ですが、余裕が無い状態を滋味深く味わえるような人間になりたいと願いつつ、今日もがんばっていこうと思います。
2025年は「戦後80年」の年になります。つまり戦争が終わった1945年から80年が経過したということになります。80年という歳月は、52歳の僕にとっては「ちょっと昔のハナシ」「祖父母が体験した時代」といった感覚ですが、人によってその感覚は違うと思います。20歳の人からみたら80年前は「歴史」的な感覚かもしれません。
さて突然ですが、ここで日本史の問題です!
【1945年の80年前、日本はどんな時代だったでしょうか?】
直感として、なんとなく今とさほど変わらない時代のような気がしたのですが、冷静に考えると1865年になるので幕末なんですよね。戦後の80年前が幕末(つまり江戸時代)って、皆さんはどんな感覚になりましたか?僕はなんとなく時間の感覚がマヒするというか不思議な感覚になりました。「戦後」をきっかけに「幕末」と「現在」がつながっているという実感がわいたというか、なんというか・・・。
さて、今から80年後は2105年つまり22世紀です。たぶん私はこの世にはいないと思いますが、どんな時代になっているかを想像するとワクワクします。
酷暑が続く今日この頃ですが、「脳内時間旅行」でリフレッシュしつつ2025年の夏を乗り越えていきましょう。
皆さん、お体ご自愛ください!
最近読んだ本で、僕がとても感銘を受けた文章を紹介させてください。
ある技術者のコトバです。
“私の仕事(技術)の鍛錬のため、日常の全てのモノゴトを利用している。例えば「爪切り」「歯磨き」「移動」「雑談」といった仕事には直接関係がないようなものでも間接的には何かしら得られるものがある。そう考え日々黙々と実践できることが私の唯一の才能だと思う”
いかがでしょうか?
『これは何の意味があるんだろう?』
『退屈な時間だな・・・』
と日々の暮らしの中で感じる事が少なくない僕には、なかなか刺激的なコトバでした。
きっとこの人にとっては日常目にする全てのモノゴトがキラキラと輝いて見えるんだろうな~と思うと羨ましくなります。そんな境地になれたら・・・、と。
そう思いながら周りを見回すと、その境地にいる人がすぐそばにいる事に気が付きました。はい、自分の子ども(7歳)です。彼はたいていの時間を笑顔で楽しそうに過ごしています。何が面白いのか僕には全く理解できない状況でも、没入し心からその瞬間を満喫しているように見えます。
もちろん、子どもと先に紹介した技術者に共通項を見いだすことは難しいのですが、「没入感」という部分は似ているのではないかと思います。
『なんの意味があるのか?』と考察を深めることはとても大切なことだし好きな事でもあるのですが、没入することで得られる気付きや歓びが、今日そして未来を生きるための糧・パワーになるのではと考えるようになりました。
これからも、あれこれ考えたり悩んだりするとは無くならないと思うけど、純粋に「没入」できる瞬間を育み大切にしよう、と感じた今日この頃です。
みなさんは「中庸」というコトバからどのようなイメージを持ちますか?
バランスがとれている状態・妥協の産物・普通(いい意味でも悪い意味でも)・面白みがない、などなど、人によって抱くイメージが多様な不思議なコトバですよね。
さて最近、年齢もキャリアも性別も価値観も異なる様々な多くの人たちと議論や討論をする機会が重なり、それがきっかけで今までと違った観点で「これからのこと」に向き合い考えるようになりました。自分の価値観や考え方を相対的に、少し俯瞰して眺めることができるようになったからだと思います。そこから、自分の考え方や判断基準に固定観念や独りよがりな点が多かったのではないか、と気が付いたと同時に「中庸」という謙虚に学ぶ姿勢が今の自分には必要だと改めて感じました。
「中庸」とは洋の東西を問わず歴史上多くの偉人が「あるべき状態」として尊重してきた概念です。私はそれを「あらゆるモノゴトを絶対視せず、謙虚にそしてしなやかに状況(今)に向き合う姿勢」と解釈し、これからの人生を歩んでいこうと考えています。凡人には難しくて険しい道ですが、一歩ずつ諦めず進んでいこうと考えています。
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